天皇陛下をはじめ、皇族方の活動や皇室に関連する出来事を過去にさかのぼって紹介する「皇室365」を始めました。皇室のあり方が問われる中、公務や宮中行事などのトピックを毎週、担当記者が詳しく読み解きます。
■6月6日(2012年)寛仁(ともひと)さまが逝去
6月6日(2012年)寛仁(ともひと)さまが逝去
2012年のこの日、三笠宮崇仁(たかひと)さまの長男・寛仁(ともひと)さまが逝去した。「ヒゲの殿下」の愛称で親しまれ、皇室の型にとらわれない言動で注目を集めた。ラジオのDJとして若者に語りかけたり、福祉の「現場監督」を自任して障害者を外に連れ出して酒を酌み交わしたり。長年にわたり、がんと闘い、声を失った後も精力的に公務を続けた。特に印象に残っているのは、東日本大震災後の行動だった。
11年3月の震災直後。寛仁さまは障害者や難病患者の生活支援を担う社会福祉法人「ありのまま舎」(仙台市)の常務理事だった白江浩・現理事長(70)に電話をかけ、状況を気遣った。甘味類を数回にわたり送り届け、入居者に喜ばれたという。
ありのまま舎は自身も筋ジストロフィーの患者でありながら、障害者らが自立して生活できる環境作りを目指した故・山田富也さんが設立した施設。寛仁さまは山田さんの思いを聞き、資金集めに講演などで全国を駆け回り、施設の開設後も入所者やスタッフを気遣った。
震災後の同年5月24日、寛仁さまは施設に足を運んだ。08年にのどのがんの切除手術を受けており、発声が難しい状況だったが、入居者らと電気喉頭(こうとう)を首にあてて会話した。白江さんは「殿下は何かあったら電話するんだぞと言ってくださっていた」と振り返る。
震災の前年に山田さんが亡くなり、その葬儀を寛仁さまが葬儀委員長として仕切った。自分が中心になって施設を支えていかなければ――。白江さんは寛仁さまのそんな思いを折々に感じていたという。
白江さんが最後に寛仁さまと対面したのは11年12月。白江さんは宮邸を訪れ、今後の施設運営などを説明した。いつもは予定時間を超えることが多かったが、このときは体調がすぐれず、途中に休憩を入れながら、滞在時間もわずか10分ほどとなった。「がんばるから、今度はもうちょっとちゃんと話をしよう」。寛仁さまはそう述べたという。
寛仁さまは45歳の時に食道…